「砂の碑」トップページモンスターボールでつかまえてポケモン発売以降の雑誌記事
2021.2.24 更新

はじめに

ポケモン発売以降の田尻氏のインタビュー記事を中心に集めたページです。
サイト内リンク:ポケモン以前のインタビュー記事のページ


「ゲーム批評」1996年 vol.8 (APRIL) 16ページ

ドラゴンが凄い、その先の言葉をみんな聞きたい。

『ファイナルファンタジーZ』がプレイステーション用ソフトとして発売されることが決まり、
急遽組まれた特集「スクウェア 幻想の真実」にて、取材を受けた田尻氏の談話記事。

業界内で以前から問題視されていたスクウェアの強引なヘッドハンティングや、
合理的手法で作られたゲームの制作システムについて話し、
スクウェアと任天堂の2つのゲーム会社を比較したうえで、田尻氏が後者の方向性を目指していることがわかる。

見出しについては、ス―ファミ用ソフト『バハムートラグーン』のレビューがこの号あるいはその前後に確か掲載され、
ゲームのタイトルこそ記事内には登場していないものの、取材の際におそらく話題として挙がったものだと思われ、
ゲーム業界の未来やソフトを販売する社会的責任の面で、スクウェアについて思うことを最後の方で話している。


「現代のエスプリ」1996年6月号 87〜96ページ

TVゲームにおける心地よい手触りの演出

ゲームデザインの中でも特に重要とされるインターフェースデザインについて田尻氏が執筆した論文。
※加筆修正予定

メモ(論文内で取り上げているものを抜粋)

スーパーマリオのジャンプ、ドラクエのマルチウィンドウ、パックマンが角を曲がったときの仕様、
ジャンピュータで牌を捨てた際の時間のタメ、インベーダーの移植(SFC)、ディズニー映画のアニメーションetc.


「スーパー64」1996年 No.2(6月7日発行?) 

大容量メモリーと磁気ディスクがひらく新しい地平

日本ソフトバンクが発行していた「The スーパーファミコン」が同年発売のニンテンドウ64と共に誌名をリニューアル。
特集「読者アンケート調査結果を徹底分析 ユーザーが考えるN64」でゲームデザイナー視点で田尻氏がコメントを寄せている。
注目度の高い『スーパーマリオ64』のポリゴンの表現力について全体の3分の2を割きながら、
見出しにある磁気ディスク(99年末発売の64DD)に対する関心が高いことが伺える。


「日本経済新聞 朝刊」1996年8月10日 31頁

子供らに大ヒット 同人誌当時の人脈生かす

「ゲーセン卒業 ゲーマー異分野を攻略」という特集で、田尻氏の談話を挟んで構成された紹介記事。
これまでの経歴を中心に振り返り、パソコンに向かう杉森氏?と田尻氏の写真も小さく掲載されている。

また、特集内では田尻氏以外にも他に2人+1社が取材の対象となっていて、
その1社とはゲーム攻略本を制作する編集プロダクション「スタジオベントスタッフ」で、
この会社の代表取締役は田尻氏と同じく、ゲーム業界の黎明期からライターとして活動してきた山下章氏である。


「覇王マガジン」1996年9月号 142〜143ページ

王立ゲーム大学 ゲームデザイナーが自らのゲームと業界に喝!! 第2回講師『ポケットモンスター』作者 田尻智

「王立ゲーム大学 〜」というコーナーに掲載された談話記事。
自分が制作したゲームを教材に用いて話すという形式で、それぞれ概要は以下の通り。(小見出し3つあり)

オレ流ゲーム哲学▼余計な財肉を落とせ!! 徹底したシェイクアップ

シェイプアップと見出しにあるように、6年という長い開発期間の間に生まれた多くのアイデアが凝縮され、
限りなく自分が当初思い描いていたゲームとして制作できたソフトであることを話している。

今だから話そう… ツールとしてのゲームを!

子供の頃の遊びがポケモン制作のルーツであることを明かし、通信対戦時のバランス調整について口にするも、
子供たちが自らルールを作って遊んでいる現状や続編への意気込みについて触れている。

明日のクリエーターはキミだ!! ぼくがデザイナーになった日

友人の家にあったパソコンで「インベーダー」が動くのを見て、パソコンでゲームを作れることを知り、
未来のゲームデザイナーを目指す人のために向けて、コメントを寄せている。


「広告批評」1997年1月号 24〜32ページ

テレビゲーム進化論

CM「バザールでござーる」をプロデュースした佐藤雅彦氏との対談記事。
※ ゲームフリークは『バザールでござーるのゲームでござーる』(PCエンジン)というパズルゲームを1996年に制作

両者の出会いは「バザールでござーる」のゲーム制作がきっかけで、開発の経緯等についても触れられている。
また、佐藤氏が手掛けたPS用ソフト「I.Q 〜 インテリジェント・キューブ」の宣伝も兼ねていて、
実際にゲームをプレイした感想を田尻氏は述べている。

※ 加筆修正予定

佐藤雅彦について

当時の佐藤氏の肩書はCMプランナー。
その後、「だんご3兄弟」のプロデュースやNHKの番組「ピタゴラスイッチ」の監修に携わっている。


「DIME」1997年1月1日号 118ページ

キャラクターを育てる”育てゲー”のブームが97年は来そうな気がするんです

1996年に発売したゲームソフトのベスト5を選ぶという企画で、田尻氏が取材を受けた談話記事。
自らが制作した「ポケットモンスター」を1位にするほど、自信作だったことを明かし、
開発時のエピソードやポケモンと同じくヒットしたミニテトリス等のゲームについても言及している。

見出しについては、生命感があるゲームを好む田尻氏がポケモンを育てることを例えに、
97年は、この"育てゲー"のブームが来そうな気がします」という発言から付けられたもので、
田尻氏が選んだベスト5の中には、「アクアゾーン」や「ときめきメモリアル」などが選出されている。


「朝日新聞 朝刊」1997年3月8日(23ページ)

大河ゲームは映画を超えるか
ビデオゲームの人気シリーズ最新作「ファイナルファンタジーZ」

1997年1月31日に発売された『ファイナルファンタジーZ』に対する批評記事。(「批評の広場」のコーナーに掲載)
「非ドラクエの結論が映画か」という題で、映画を目指している同作について、田尻氏は語っている。
※ 田尻氏以外に以下の3名の談話も記事内に掲載されている。
(CMプランナーの佐藤雅彦氏、「ゲーム批評」誌の編集長の斉藤亜弓氏、脚本家の伊藤和典氏)


「日経エンタテインメント!」 APR 1997 46〜48ページ

ゲーム・クリエイター 携帯型ゲーム・ブームを先取りした男 田尻智
大人が知らない大ヒット作『ポケモン』誕生秘話を公開

「時代を動かす50人 ヒットの達人、自作を語る」という特集で、田尻氏へのインタビューを中心に構成された紹介記事。
メインのポケモン開発秘話では、ゲームのコンセプトとなる通信交換の発想が頭に浮かんだ経緯から始まり、
開発が遅れに遅れたのにもかかわらず、発売担当の任天堂が制作を暖かく見守り続けてくれたことについて触れている。

ポケモン発売以降の話もここでは取り上げられ、次世代機への注目やゲームの値段に敏感な子供たちに触れつつ、
携帯型ゲーム機の進化や提案、続編『ポケモン2』への意気込みなどが分かるものとなっていて、
また、メイン記事とは別に「ヒットの達人篇 キーパーソンの質問状」というコーナーが設けられ、
田尻氏を含め6名のクリエイター(音楽関係3名、テレビ関係2名)が5つの質問にそれぞれ答えている。


「読売新聞 朝刊」1997年7月5日

[顔]大流行のゲームソフトを開発した田尻智さん

コラム[顔]に掲載された紹介記事で、田尻氏の談話を中心に構成されたもの。
子供の頃、田尻と同様に虫取りやカードの収集に夢中だったであろう同世代に向けてポケモンが作られたことを明かし、
リード文にも、"少年時代の追体験をしたい"とあって、子供に受けたのは「予想外だった」と口にしている。
また、人気ソフトになった理由を自ら簡単に分析し、続編の制作に意気込んでいることが分かるものとなっている。


「ゲーム会議」 Vol.9 1997年8月20日発行 14〜19ページ

ポケモンを連れて未来へ旅に出よう

特集「『ポケモン』が変えたデータトレードゲームの可能性」が組まれ、田尻氏のインタビューも掲載。

サイト内リンク: 開発スタッフ(杉森・森本・増田・太田)の座談会の記事(4〜11ページ)

※ 加筆修正予定


「朝日新聞 夕刊」1997年10月27日 

ゲーム 想像力生かす楽しさも(デジタル工房は今:下)

朝日新聞社主催の第2回「朝日デジタル・エンターテインメント大賞」にて、
「ポケットモンスター」がホーム部門賞を受賞し、制作者の田尻氏がインタビューに応じた談話記事。
尚、田尻氏以外にも「たまごっち」で大賞を受賞した猪野修平(バンダイ取締役)と
ホーム部門個人賞にノミネートしたゲームクリエイターの飯野賢治がそれぞれ新聞の取材に応じている。


「ゲーム批評」1998年1月号 56〜61ページ

業界人に訊く横井氏の肖像

1997年に不慮の事故で亡くなった横井軍平の追悼記事。
任天堂の今西絋史や宮本茂などの著名人と共に、田尻と石原が取材に応じている。
田尻氏は自身が制作した「マリオとワリオ」や「ヨッシーのたまご」 の開発時のエピソードを交えながら、
生前の玩具の発明家としての横井氏の印象やゲーム論などについて多くを語っている。


また、岩田聡、遠藤雅伸、河村克己、森川幸人ら業界関係者が、記事内でそれぞれコメントを寄せている。


「じゅげむ」1998年12月号 131〜146ページ

『ゲーム開発物語』 ポケモンを作った男 田尻智の怪獣手帳

山崎浩による連載漫画『ゲーム開発物語』の第1回で田尻氏の半生を題材にした漫画が掲載。
参考: 山崎氏本人のサイトの『ゲーム開発物語』についてのページ 


「CONTINUE」Vol.15(2004年) 29ページ

「ポケモンを創った男」番外編 田尻智&杉森建 ゲームボーイを語る

書籍「ポケモンを創った男」に収録されていない田尻氏と杉森氏のインタビュー記事。
同号がゲームボーイ特集(Vol.15)だったことから、その出会いや思い出話ををそれぞれ語っている。

今日まで語り継がれているゲームボーイの容量制限やグラフィックの問題に加え、
通信ケーブルを介した情報のやり取りの一例として、テトリスや麻雀などを例に挙げていて、
後者はゲームボーイのローンチタイトルである『役満』のことと思われ、
配牌と捨て牌の情報のやり取りを通じて『ポケモン』へのヒントにつながったと語っている。

ゲームボーイ版テトリスに当時夢中だった田尻氏がふと思い出したカルト映画『悪魔の毒々モンスター』の話もあって、
映画そのものの話は記事内で数行に抑えられているが、おそらく話は大きく脱線したと思われる。


「CONTINUE」 Vol.23(2005年)

GAMEFREAKS make the world 65〜69ページ

2005年にトミーテックから発売された玩具『ドッツ』で遊ぶゲームフリークのスタッフの写真が掲載され、
田尻智&杉森建と3人のグラフィックデザイナー(吉田宏信、海野隆雄、江尾可奈子)の計5名のコメントも寄せられている。

The new world make of GAMEFREAKS 70〜72ページ

ゲームフリーク制作による横スクロールアクション『スクリューブレイカー 轟振どりるれろ』発売記念インタビュー。
本作のディレクターである杉森建とグラフィックデザイナーの吉田宏信がインタビューに応じている。


「CONTINUE」Vol.31(2006年) 36〜37ページ

『ポケモン』の10年

ポケモン発売10年を迎え、田尻氏自らがこれまでを振り返って執筆した記事。
最初の通信ケーブルからワイヤレス通信、Wi-Fiの利用などの通信機能の進化について語り、
田尻自身が1990年当時に書いたポケモンの企画書を読み上げながら、
コミュニケーションの場として、ポケモンの世界を作り上げるために苦労した容量の問題をはじめに、
ポケモン同士が戦う際に使う"わざ"におけるゲームデザインについて書かれている。


「CONTINUE」Vol.32(2007年) 100〜112ページ

スペシャル対談 田尻智×中川翔子

中川翔子(しょこたん)との対談記事。しょこたんがフシギダネのデザインについて田尻氏に質問した際に、
ポケモン以前にキノコ図鑑に影響を受けて、ファミコンでRPGを企画していた話をしているのはこの記事で、
カメの上に植物のツボミが咲いた、」と、フシギダネは冬虫夏草がヒントとなっていることを明かしている。

※ 加筆修正予定

サイト内リンク: 「ファミコン必勝本」のクインティ発売記念の対談記事に戻る


「Nintendo Dream」2008年10月号 36〜45ページ

ファミコンと僕と思い出の1品

「ファミコン生誕25周年記念」というスペシャル企画で田尻氏がインタビューを受けた記事。
インタビュアーは古くからの知人である「ファミマガ」元編集長の山本直人氏。
10ページに及ぶロングインタビューで、インベーダーとの出会いから現在までの約30年を語っている。

※ 加筆修正予定

メモ:「ファミコン若大将のくるくる情報」 の連載記事が誌面で紹介され、第22回は『バレーボール』を紹介。



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