〜1983年 1984年 1985年〜1990年 1991年〜1996年 一部抜粋したショートカット(ページ内リンク)
「ログイン」1983年8月号→ゲームフリーク創刊 『ゼビウス』の噂に関する記事
「ログイン」1983年11月号→遠藤×田尻×大堀?(&野々村?) はじめに
田尻氏がライターとして活動していたポケモン発売以前の雑誌記事などを主に扱ったページです。
ページ内で扱っているログイン(LOGiN)は1983年から1984年頃までを大雑把に確認した程度で、
「ビデオゲーム通信」のコーナーの記事を中心に扱っています。
ナムコが発行していた広報誌「NG」や「AMライフ(アミューズメントライフ)」などをはじめに、
未確認の雑誌(上記2つは国会図書館に所蔵)も多いですが、レトロゲームへの関心も年々高まる今日この頃。 〜1983年 1984年 1985年〜1990年 1991年〜1996年 ▲トップへ 「ゲームマシン」1982年2月1日号 3ページ優秀アイデアは2名 セガ社募集のTVゲームアイデアに2230件の応募
セガ主催の「81TVゲームアイデア大賞」に田尻氏が応募した
『スプリングストレンジャー』が優秀賞を受賞したことを報じた記事。
優秀賞には田尻氏以外に他一人が受賞し(大賞該当者なし)、
そちらは『スーパーロコモーティブ』というタイトルで1982年に商品化されたが、
田尻氏の考えたアイデアの方は途中まで開発されるも、商品化されなかった。
(※ 『田尻智 ポケモンを創った男』2004年 / 27〜28ページ参照) 「アミューズメントライフ」4号(April 1983) 8〜11ページ春なのだ 新企画で迫っちゃう 読者参加 ゲーム大好き少年、ビデオゲームに挑戦
1983年3月13日に御茶ノ水のゲームセンター「ファンシティOZ」で、
田尻氏含む5人の少年がゲームセンターで遊んだ感想が掲載された記事。 「ログイン」1983年8月号 153ページ「ビデオゲーム通信」ぼくらはプログラムと戦っているのだ!
この号から始まったゲーム雑誌の歴史のターニングポイントの一つとして知られる「ビデオゲーム通信」のコーナーで、
田尻氏が制作したミニコミ誌「ゲームフリーク」が紹介された記事。
記事見出しは「ゲームフリーク」創刊号に書かれた一文
"あなたはゲーム・マシンに向ってインベーダーやUFOと戦っているのではなく、
あくまでもプログラムと戦っているのだ"を翻案したものと思われる(『田尻智 ポケモンを創った男』43ページ参照)。
「ゲームフリーク」を今月のゲーム・ファンジン (ミニコミや同人誌と同じ意味あい) の一冊として紹介し、
定期購読したい会員や編集参加を希望する人の募集が案内され、田尻氏のインタビューも掲載されている。 「ログイン」1983年9月号 88ページタイトー社の新作 ELEVATOR ACTION 「ゲームフリーク」編集長が解く ―その傾向と対策―
タイトーが開発した『エレベーター・アクション』の攻略方法について、談話形式で読者に届けた記事で、
「ゲームフリーク」第4号と第5号の特集内容についても紹介されている。 特集で扱ったゲーム
第4号→『チャンピオン・ベースボール』(開発:アルファ電子、販売:セガ / 1983年) 「ログイン」1983年11月号 153ページついに念願の豪華対談実現、万歳!! (北陸からの便りーB)田尻氏と同時期にゲーム・ファンジン「VITAMIN AM」を発行していた怪獣ひでごんすとの対談記事。 「ログイン」誌の編集部が彼らの東京旅行の際に事前にます寿司を要求するというエピソードや、 複雑化した最近(83年当時)のゲームについて話し、それに答える田尻氏の反応などが見どころだが、 1ページの半分にすら満たない誌面での扱いのため、話は途中で終わってしまうのが少し残念。 怪獣ひでごんすと「VITAMIN AM」について
ひでごんす氏が会長を務めた富山県高岡市で結成されたゲーム同人サークル
「Tampa(高岡アミューズメントマシン同好会)」は、
日本のビデオゲーム同人誌の元祖として知られるミニコミ誌「VITAMIN AM」を発行。
「NG」や「AMライフ」、「ログイン」1983年7月号(9ページ)などで彼らが作ったミニコミは紹介され、
"AM(アミューズメント)業界のビタミン剤(活性剤)"という願いを込め、
名付けられたことが前述の「ログイン」の記事から確認できる。 「ログイン」1983年11月号 148〜149ページ「DATALOG」 少年は「ゼビウスの星」を見たか1983年8月27日に東京の日仏会館で行われた「ぴあ」主催のイベント 「第7回アニメーション・サマーフェスティバル」のレポート記事。イベント会場内には、 『ゼビウス』の開発者である遠藤雅伸が特製『ポールポジション』の解説者として登壇したため、 当時話題になっていた『ゼビウス』に登場する隠しキャラの噂の真相を本人に質問し、 最後に登場したとある少年の質問に対する遠藤氏の対応が記事の見どころとなっている。 電ファミの記事&ぜくう氏の考察
田尻氏が電ファミの鼎談記事(以下の引用文末尾のリンク先参照)で言及しているログインの記事はこの記事と考えられ、
少年の正体はうる星あんず(大堀康祐)氏であるとインタビューで田尻氏は語っているが、
テレビゲーム史研究家のぜくう氏によると
(参考ツイートのリンク)、
実際に質問した少年は田尻氏の可能性もあるということで(もちろんこの二人以外の可能性も…)、
この記事を書いたのが野々村文宏(雷門ビデ坊)氏 or 田尻氏本人という可能性も考慮し、
現時点での真相は不明である…。 田尻氏: 「マイコンBASICマガジン」別冊付録「スーパーソフトマガジン」1983年11月号 134ページお知らせ
「ゲームフリーク」の別冊として『ゼビウス1000万点への解法』
(※「Xevious 10,000,000 ptsへの解法」と記事内では表記)
が通信販売されることから掲載された広告記事。 「スーパーソフトマガジン」について
「スーパーソフトマガジン」はアーケードゲームの紹介や攻略情報を扱った雑誌で、
前述した「マイコンBASICマガジン」(通称"ベーマガ")の別冊付録である。
創刊号である83年11月号では『マッピー』、83年12月号から84年2月号にかけて『ゼビウス』を攻略特集で扱い、
うる星あんず(大堀康祐)氏が記事を執筆している。 ベーマガ関連リンク集
ALL ABOUT ベーマガ
(ツイッター) 〜1983年 1984年 1985年〜1990年 1991年〜1996年 ▲トップへ 「マイコンBASICマガジン」別冊付録「スーパーソフトマガジン」1984年1月号 20ページお知らせ
1983年の12月上旬まで注文を受け付けていたゼビ本を無事発送したことを田尻が報告した記事で、
応募時に氏名を書き忘れていたり、住所の間違い等で本が届かなかった読者に向けられた内容となっている。 「ログイン」1984年1月号 148〜149ページ「DATALOG」 桑田佳祐、細野晴臣も持っている「ゼビウスの本」の秘密
ミニコミ誌「ゼビウス 1000万点への解法」を巡る物語が掲載された貴重な記事。 細野晴臣×遠藤雅伸の対談&アルバム「ビデオ・ゲーム・ミュージック」
当時、YMO(83年末 散開)のメンバーとして知られたミュージシャンの細野晴臣が『ゼビウス』に熱中し、
この同人誌を手にしたことから見出しが付けられていて、
前述した記事の翌月号に細野氏が登場する予定と書かれ、
実際に『ゼビウス』の開発者である遠藤雅伸と細野氏が対談し(1984年2月号 122〜126ページ掲載)、
ゲーム談議に花を咲かせ、対談記事の枠外のSpecial Thanksには、
S.Tajiri(Game Freak) とクレジットされている。 「ログイン」1984年2月号 151ページ「田尻くんのゲーム人生日記」 幻の雪ダルマは、冬の埼玉でひとりリンゴを押していた
「田尻くんのゲーム人生日記」という不定期で掲載されたコラムで、
1982年に発表されたユニバーサルの『Mr.Do!(ミスタードゥ)』を紹介。
本作の通常版ではプレイヤーはピエロを操作するのだが、
ロケテスト版である幻の雪だるまバージョンが存在する噂を聞きつけた田尻氏は、
はるばる埼玉県の北本・鴻巣周辺のゲームセンターを探し求め、実際にゲームをプレイしたことを書き綴っている。
「ログイン」1984年3月号 151ページ「田尻くんのゲーム人生日記」オリンピックはスポーツだ フェアじゃなければズルイぜ
先月号で『Mr.DO!』を紹介した同コラムで、今回は『ハイパーオリンピック』(コナミ / 1983年)を取り上げている。
当時のゲームプレイヤーたちがライターやガチャポン、段ボール、バイブレーターといった様々な道具を用いて、
勝利のために反則プレイに興じる姿を実況中継風に面白可笑しく書いた文体が特徴で、
この記事内で田尻氏自身は反則プレイを推奨してないことから時系列的には、
ゲーム仲間との友情に亀裂が入り、後になって仲直りした以降の話かと思われる。 「ログイン」1984年5月号 154〜155ページビデオゲーマー田尻の病床からのメッセージ
ミニコミ誌「ゲームフリーク」とその編集責任者である田尻氏が読者に改めて紹介された記事で、
バックナンバーの合本 「ENCYCLOPEDIA GAMEFREAK(Vol.1〜6)」を作ったことも報告。
取材も一応行われているが、タイトルにもあるように記事によれば、当時の田尻氏は病床に伏していて、
再販を委託されたゼビウス本の大量注文による発送問題やそれに伴う「ゲームフリーク」の会員数の増加に加え、
『ゼビウス』の噂のデマを流した当事者になるなど様々な問題による心労が重なり、
体調を崩したのではないかと考えられる。 「スーパーソフトマガジン」1984年5月号 11ページ
『ゼビウス』のゲームデザイナーである遠藤雅伸氏のインタビュー記事。
アルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』や新作『スーパーゼビウス』について主に語っていて、
レコードのジャケット写真やレコーディング・スタジオに置かれたゲームの筐体に向かう遠藤氏と細野晴臣氏
(『ビデオ・ゲーム・ミュージック』のプロデューサー)の写真も掲載されている。 ゼビウスの噂話の件について
田尻氏が流したとされるゼビウスの噂話について、開発者の遠藤氏が触れていて、以下の通り。 「ゼビウス」については最近、某ゲームフリーク誌のT君などが、 まことしやかな未確認情報を流していたり、巷の噂のいいかげんさにボクも困っていたのですが、 応援してくれるファンのために「ファントム」「ギャラクシアン」など、 新しいフューチャーを追加して本家「スーパー」がデビュー。 「ログイン」1984年11月号 93ページ8・19晴海、I51番ブースより愛をこめて
1984年8月19日に晴美貿易センターで行われたコミックマーケット(コミケ)に
「ゲームフリーク」がサークル参加し、その際に多くの読者が会場に訪れたことから、
励ましの言葉等に対するお礼や今後の意気込みを田尻氏自ら執筆した記事で、
「ゼビウス 1000万点への解法」を店頭で田尻氏が売っているイラストも描かれている。 〜1983年 1984年 1985年〜1990年 1991年〜1996年 ▲トップへ 「ログイン」1985年5月号 74ページ『ゲームフリーク』『BGM』『VG2』など NHK "YOU"出演なる 糸井重里氏と歓談1985年2月23日にNHK教育テレビで放送された番組「YOU」の"パソコンなんか恐くない"という回のレポート記事。 ゲームフリークのメンバーや、他のゲーム・ファンジンを発行するグループが番組に出演し、 番組収録時に緊張して震えた田尻氏の指先を目にした司会の糸井重里の一言が見どころ。 「ログイン」1985年8月号 22〜23ページ「ソフトウェア・レビュー」タジリとビデ坊の、回顧レビュー
ファミコン版の『スペースインベーダー』を取り上げた記事ではあるが、ゲームそのものの紹介ではなく、
田尻氏と雷門ビデ坊(野々村文宏)氏がこのゲーム(もちろんアーケード版)をきっかけに、
ビデオゲームに夢中になリ、後に両者が出会う過程等をストーリー仕立てに数年間を振り返っている。 「ログイン」1985年9月号 145ページ夏だ、コミケだ、おたくの季節だ!!
1985年8月11日に晴美国際見本市会場で開かれるコミケにゲームフリークがサークル参加するため、
田尻氏自らが宣伝のために執筆した記事(杉森氏が描いた11コマの漫画も掲載)。 「週刊プレイボーイ」1986年9月23日号(No.40) 68〜71ページやっぱりここに帰って来ちまった…『ゲーセン』こそ男の青春道場 熱いぜ! ゲームセンター ウル技大辞典
同誌で連載されていたコラム
「ファミコンくるくる情報」(サイト内リンク)を1ページ任されていた田尻氏がゲーセン(アーケード)特集を担当。
『スペースハリアー』(1985年/セガ)、『モモコ120%』(1986年/ジャレコ)、
『黄金の城』(セタ開発,タイトー販売/1986年)の3作品の紹介を中心に、
いろいろなアーケードゲームの攻略法(ウル技)を紹介している。 「広告批評」1987年7月号 45〜55ページファミコン名作ゲーム10選
「ファミコン大研究」という特集で『ドラゴンクエスト』開発関係者へのインタビューをメインに構成されるなか、
この時期までに発売されたファミコン用ソフトを田尻氏が10作選んで、批評した記事。
「GORO」1988年4月14日号 111ページ「流行世界を征く」 いちゃもん早耳地獄 ファミコン情報が流れる闇のネットワークとは?
いとうせいこう×島崎夏美の対談コラムにゲストとして参加した記事で、
フリーゲーマー、ファミコン若大将、ゲームライターなどの当時の複数の肩書が冒頭で紹介されている。
子供たち独自の闇のネットワークについて、ハドソンの広報を担当していた高橋名人の逮捕というデマや、
『ドラえもん』の最終回の都市伝説を引き合いに話は展開され、
ゲームの裏技などを田尻氏は子供たちを通じて様々な情報を得ていたことが記事から確認できる。 せいこう オーッ、人生の教訓みたいだな。ウラわざはどうやって見つけるの? 『ノーライフキング』関連のメモ
いとうせいこうはテレビゲームを媒介に子供たちの噂のネットワークをテーマとした小説『ノ―ライフキング』(
Wikipedia /
ニコニコ大百科 /
2008年に河出文庫より復刊)を1988年8月に発表。(このコラム記事が掲載されて数か月後のこと) 島崎夏美とのテレビ番組での共演
当時、「an・an」などの女性誌を中心にモデルとして活動していた島崎さんは、
フジテレビの番組「ゲーム名人戦」で田尻さんと共演していて、ボードゲーム「スコットランドヤード」
(Dailymotion
/ ニコニコ動画)
の回に出演している。同番組は1988年4月8日(前編)と15日(後編)に分けて放送され、
解説として番組に出演したボードゲーム研究家の高橋浩徳のサイト
「ボードウォーク・コミュニティー」を今回参照し、
番組共演者である田尻さんの師匠の野々村文宏もゲームに参加している。
(メモ:すぎやまこういちが本編終了〜番組エンディングの間に出演)
「宝島」1988年5月号 66ページキミは"しのオルゴール"を見たか!? |
スーファミ用ソフトとしての1作目でありスーパーマリオシリーズの4作目の田尻氏によるレビューが掲載。
マルチエンディングに対する疑問や最近のソフトのオプション機能による難易度の調整など、
作り手と遊び手の両方の立場で最近のゲームの傾向について多くを割きながら、
テリー・ギリアムの映画『バロン』を引き合いに本作のゲームデザインの出来を高く評価している。
また、「ゲーム内ゲーム」の構造として、前作のボーナスゲームに対する不満も本作では解消していること述べ、
他作品ではあるが『ドラクエW』のカジノについても評価している事が確認できる。
「メーカーの声」をまとめたコーナー内で、ゲームフリークのアルバイトの求人募集が掲載。
「ゲームライフの達人」のコーナーに田尻氏がゲストとして招かれ、
アーケードゲームの基板を集め始めたきっかけやその魅力について話し、
収集家の増加に伴う価格の高騰を受けてコレクションの数では他に劣る、と田尻氏は語っている。
なお、取材はゲームフリーク社内で行われ、
記事内に掲載された写真にはとみさわ昭仁氏+他二人(プログラマーの新改氏&郡山氏か?)の姿も写っている。
サイト内リンク:「ファミコン必勝本」のメモのページに戻る
メモ1:記事内では、基盤と表記され(見出し含め)、正しくは基板。
ちなみに、1987年に放送されたテレビ番組
「糸井重里の電視遊戯大展覧会」(YouTube)で、
田尻氏は基板コレクションの一部を披露している。(91年以前ということを補足)
サイト内リンク:番組内で紹介されたゲームのタイトルをメモした箇所へ
メモ2:同号6〜9ページにすぎやまこういちのインタビュー記事が掲載され、
自身が館長を務めるテレビゲーム・ミュージアムの今後について話している。
メモ3:同号92〜93ページ掲載の「わたしがすすめるスタッフ、メーカー社員が届けます'90年この10本」で、
田尻氏がベスト10を選出していて、コメントも寄せている。
『スーパーマリオワールド』と同率1位で選出した『F-ZERO』については、
同号125ページに掲載された田尻氏の連載コラム(第2回)で触れていて、
GTVの渡辺浩弐氏も同号88ページで田尻氏と同じく"生理的(な)快感"をキーワードにその面白さを紹介している。
ゲームの嗜好 | ||
---|---|---|
アクションゲーム大好き。でもRPGだって好きだよ。 | ||
順位 | タイトル | 機種(ハード) |
1位 | スーパーマリオワールド | スーパーファミコン |
1位 | F-ZERO | スーパーファミコン |
3位 | ドラゴンクエストW | ファミコン |
4位 | ファイアーエムブレム | ファミコン |
5位 | ファイナルファンタジーV | ファミコン |
6位 | スーパーダライアス | PCエンジン |
7位 | コラムス | メガドライブ |
8位 | SAGA | ゲームボーイ |
9位 | ナイトムーヴ | ファミコン・ディスク |
10位 | アイラブ/ミッキーマウス/ふしぎのお城大冒険 | メガドライブ |
ベスト10に対するコメント | ||
マリオとドラクエのランクインは当然だ。 F-ZEROが、予想を上回る出来の良さに驚かされた。 |
テレビゲームという新しいメディアにおいて、クリエイターであるゲームデザイナーにスポットを当て、
田尻氏が紹介された談話記事で、これまでの活動の経歴を中心に構成されている。
※ スタッフに囲まれ、スーツを着ている田尻の姿の写真も掲載
田尻氏以外にも、この特集ではナムコから独立して「ゲームスタジオ」を立ち上げた遠藤雅伸氏や、
ゲームの開発者の養成を目的とした専門学校「ヒューマン・クリエイティブ・スクール」も記事内で紹介されている。
SNKが開発・販売したゲーム機「NEO・GEO(ネオジオ)」を紹介した記事。
田尻氏のようなゲームフリーク(サークル名ではなく広義の意味合い)は、
数年前から業務用であるアーケード・ゲームの基板やテーブル筐体を収集して自宅で遊ぶこともあり、
そんなマニアをターゲットに登場したのが家庭用と業務用の中間に位置する「NEO・GEO」で、
90年の販売当初はゲームセンターでマシンとソフトをレンタルするという方式だったが、
91年7月から家庭用として一般販売されることも記事内で取り上げている。
なお、田尻氏はメモリ容量の大きさにも注目しているが
(ファミコンの『ドラクエ4』が4メガなのに対し、「ネオジオ」のソフトは20〜65メガ!)、
容量が倍増したからといって、面白さがそれに比例するわけではないという口ぶりは田尻氏らしく、
現在リリースされている17種類のソフトの出来はまあまあ良いといった出来らしい。
インベーダーの流行から現在までのゲームとの関わりについて手短に紹介され、
スーファミ用ソフトとして開発中の『ジェリーボーイ』の仕上げに忙殺されていることに最後に触れられていて、
実際にゲームで遊んでいる杉森建氏と思しき横顔とそれを暖かく見守る田尻氏の写真も掲載されている。
毎号ごとにテーマが変わる「VOICE OF VOICE」の同号のお題は
"今どきGCのCP"(※ GC=ゲームセンター、CP=コストパフォーマンスとそれぞれルビが振ってある)。
1985年の風営法の改正以降、ゲーセンは苦境に立たされることになったが(それまでは24時間営業できた)、
『UFOキャッチャー』や『ストリートファイターU』などのヒット作が新たに生まれ、
その2作品を中心に田尻氏は書き綴っている。
スーパーファミコン用ソフト『スターフォックス』のプロデューサーである任天堂の宮本茂のインタビュー記事。
このインタビューで、宮本氏への取材の聞き手として選ばれたのが田尻氏で、1993年2月3日に任天堂本社で取材は行われた。
両者ともテレビゲームのクリエイターであることから、専門用語の脚注が別段に設けられた濃い内容となっている。
ソニーマガジンズから発行された雑誌(全3号)の創刊号。(以降、eは大文字に)
90年代前半にゲームフリークの出版部に在籍していた佐藤大が企画・責任編集を務め、
後にゲームフリークに参加する松島賢司がライターとして参加し(その後は"賢二"表記か?)、
ゲームフリークも編集に協力している。
1993年公開のアメリカの実写映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』の全米上映が始まったことを受け、
「映画公開にみる任天堂海外事情 ニンテンド―・パワーに秘められた世界への道」(16〜17ページ)の記事内で、
『マリオとワリオ』を制作中(ゲームフリーク制作 / 1993年8月27日発売)
の田尻氏がマリオに関するFAXアンケートに回答している。
インベーダー以降から現在までのゲームセンターとゲーマー達(田尻智、大堀康祐、吉津浩司が登場)
の物語を紹介した記事。松島賢司が執筆(ゲームフリークが協力)。
※ 加筆修正予定
特集「ゲーム史再検証 ゼビウスの遺産」(90〜98ページ)にて、遠藤雅伸×野々村文宏×田尻智の座談会が実現。
構成は当時フリーライターで後にゲームフリークの社員となる松島賢司が担当している。
野々村氏によるコラム「ゼビウスは言語だった」も別枠(98ページ)に掲載されている。
「クソゲー」という言葉を使わずに「ゲーム批評のためのコトバ」を探す旅に出た羽田とうそう氏との対談コラム。
他分野と比べてゲームの評論が成立しない現状について、書き手が作り手に転身する場合であったり(田尻氏が該当)、
書き手の意識の低さについて触れていて、田尻氏自身が書く場合は読み手を想定する重要性を説いている。
また、テレビゲーム独自の面白さを語る際に「インタラクティブ性」という言葉がよく用いられ、
コナミの『ハイパーオリンピック』を例に「画面上の身体性」に田尻氏が注目している事が確認できる。
1994年5月頃(※記事内に掲載された社内のカレンダーの写真から判断)に行われた田尻氏のロングインタビュー記事。
これまでの経歴やゲームフリークが手掛けた作品について語り、『ポケモン』を匂わせる発言も記事内から確認できる。
※ 加筆修正予定
電脳整体師の異名を持つ橋本典明と工業デザイナーの深谷宏との座談会を記事にしたもの。
※ 加筆修正予定
プレイステーションやセガサターンといった次世代機の登場について話した談話記事で、
田尻氏以外に、渡辺浩弐、山下章、近田春夫、高橋宏之、鈴木慶一、宮地武、佐藤大の計8名が回答している。
「フラットパネル・ディスプレイ'93」に掲載された任天堂の横井軍平の論文を田尻氏は引用して、
現在の最先端の技術が家庭用ゲーム機に実装される数年後のゲーム業界を予測し
(横井氏の「枯れた技術の水平思考」を指す)、
ゲームを作る側の立場の人間として、ハードウェアの進化に注目しながらも、開発環境の改善を説いている。
特集「HAPPY NEW DESIGN」でゲーム・デザイナーである田尻氏が紹介された記事。
高校生の頃にPC-8001で独自の要素を取り込んだインベーダーゲームや潜水艦ゲームを作った話を記事前半
(これまでの経歴について主に)にしていて、この当時(80年代前半の頃)、
パソコンでプログラミングをしていた人が現在のゲーム業界で田尻氏と同じように活躍している人は多く、
チュンソフト代表の中村光一氏の名前も記事内で紹介されている。
記事後半では今後の志向性について触れられ、
最初の『クインティ』のように時代性と無関係なゲームを目指し、
ゲームボーイでRPGを野々村文宏氏(『ポケモン』のシナリオに参加)
と共に開発していることが記事内で触れられている。
最後にテレビゲームの面白さについて分析し、
きれいなグラフィックよりも動きが気持ちいいものをいくつか例を挙げつつ、
インタラクティブな仕組みに田尻氏は着目していることが分かる。
※ 記事内に掲載された画像(ゲーム画面)は以下の通り。
・当時のゲームフリークの最新作である『パルスマン』(55ページ掲載)
・オフィスの仕事場やスタッフとの集合写真(57ページ掲載)
・田尻氏がイラストやフォントなども手掛ける一例として紹介された『ヨッシーのたまご』(58ページ掲載)
クリエイターの仕事部屋によくありがちな物が散乱した部屋を好まないことがわかり、
田尻氏以外に、アナウンサーの木佐彩子、プロレスラーの鈴木みのる、
マンガ家の古川益三の3名が同じページ内で充実した理想の部屋についてそれぞれ回答している。
アメリカで話題のSNES(北米向けスーパーファミコン)用ソフトを中心に9本のゲームソフト紹介した記事。
同誌Vol.6でも同様の記事(Part2)を田尻氏が担当し、
各ソフトのWikipedia(英語)の該当ページのリンクを貼っておきます。
タイトル | 発売年 | ハード | メーカー(発売) | ジャンル |
---|---|---|---|---|
Donkey Kong Country ※ 『スーパードンキーコング』 |
1994年 | SNES | Nintendo | 横スクロールアクション |
Super Punch-Out!! | 1994年 | SNES | Nintendo | スポーツ(アクション) |
Mickey Mania
※ 『ミッキーマニア』 |
1994年 1995年 | SNES スーファミ / メガドライブ | Sony Imagesoft カプコン / セガ | アクション |
Uniracers | 1994年 | SNES | Nintendo | レースゲーム |
Metal Combat: Falcon's Revenge | 1993年 | SNES | Nintendo | シューティング |
Space Invaders | 1994年 | Game Boy | Taito | シューティング |
Wario Blast: Featuring Bomberman! ※ 『ボンバーマンGB』 |
1994年 | Game Boy | Nintendo ハドソン | アクション |
Battletoads/Double Dragon | 1993年 | SNES | Tradewest | アクション |
Wario's Woods ※ 『ワリオの森』 |
1994年 | SNES ファミコン | Nintendo | パズル |
以下、紹介記事から全文転載。最後の"コンパチビリティ"とは互換性のことである。 (※『ポケットモンスター 赤・緑』もゲームボーイではモノクロ4階調だが、 スーパーゲームボーイでプレイすれば最大13色表示対応)
インベーダーゲームといえば、日本ではもう何年も前に発売になったソフトだが、 アメリカではやっと年末にでた。ところが米国版は、 ゲームボーイソフトでありながら、ゲームボーイ専用ではない。 スーパーゲームボーイにソフトを差して、SNES(スーパーファミコン)でたちあげると、 なんと、SNES版インベーダーが遊べる。ちょっと文章では伝えにくいんだけど、 つまり、1本にGB用とSNES用の2つのプログラムが入っているわけ。 このコンパチビリティは、前代未聞、すごい。
なお、1993年に日本で発売されたスーパーファミコン用ソフト『スペースインベーダー』は、 オリジナルのアーケード版(1978年稼働)を忠実に再現(移植)したリメイク作品として知られ、 田尻氏も「宝島30」1994年8月号に掲載された連載コラム (サイト内リンク)で高く評価している。
CD-ROMマガジン「INTRO」は1993年にシキタ純が創刊し、
シキタ氏自身のサイトで表紙や内容を確認可能。
雑誌のコンセプトは《New Cultural EDGE》で、
国会図書館にも所蔵されている。(コンセプトも含めてNDLでは登録)
その後、シキタ氏はNPO法人
「BeGood Cafe」を1999年に設立して代表理事となり、2017年9月10日に逝去。(
公式サイトのニュースより)
スーファミ用ソフトとして発売された『スーパードンキーコング』を批評した記事。
従来のハードであるスーパーファミコンのソフトでありながらも、
グラフィック面では決して引けを取らないと田尻氏は評価するが、
コスト面での開発リスクに加え、リアリティの追及による弊害であるバナナのアイコン性について苦言を呈し、
コンピュータの進歩によるテレビゲームの変化について、
ゲームクリエイターの一人として以下の一文を書き綴っている。
グラフィックのリアル志向とゲーム性本来の抽象性とのバランスを、今まで以上に意識しなくてはならないのだ。
早稲田大学人間総合研究センターが発行する学術誌に掲載された論文記事。
『スーパーストリートファイター2』や『バーチャルファイター』などのゲームを用いて、
初心者と熟練者のゲームプレイ中の脳波の比較や「インタラクションデザイン=手ざわり」などについて書かれ、
ゲームフリークから田尻と松島賢司の2人が参加し、
渡辺浩弐が代表を務めるGTVから渡辺含め2名、
早稲田大学から2名の計6人によって実験・執筆等されている。
ポケモン特集が組まれた書籍(1998年 / リクルート)に渡辺浩弐氏インタビューが収録されているが、
氏がテレビアニメの事件について言及している部分で、
過去に田尻氏と一緒に大学でゲームに関する研究をしたという話(57ページ参照)があって、
もしかしたらこの記事を指すかもしれない。
前回(同誌Vol.3)に続いて、次世代機戦争の影に隠れるものの、 独自性が高く面白いアメリカのSNES用ゲームソフトを5本紹介した記事。
タイトル | 発売年 | メーカー(発売) | ジャンル |
---|---|---|---|
MICRO MACHINES | 1991年 | OCEAN | レースゲーム |
Toys: Let the Toy Wars Begin! | 1993年 | Absolute | アクション |
Mighty Morphin Power Rangers :The Movie | 1995年 | Bandai | 格闘アクション |
Pushover | 1992年 | OCEAN | パズル |
Zombies Ate My Neighbors | 1993年 | KONAMI | アクション |
同誌74号(1995年2月)に田尻氏の紹介記事が掲載され、
本文内でゲームボーイのRPGを長年開発していることに触れられていたが、
勿論『ポケモン』のことを指し、ついにその『ポケモン』が完成して、発売されることから改めて紹介された記事。
記事内には、『ポケモン』のゲーム画面(ピカチュウのポケモン図鑑の説明文)以外にも、
同時期に開発されたと思われる完成間近の『バザールでござーるのゲームでござーる』
(PCエンジンのSUPER CD-ROM2用ソフト)のゲーム画面が掲載され、
ゲームボーイを手に持った笑顔の田尻氏の写真も掲載されている。
ゲームボーイの通信ケーブルを通じて、アイデアが生まれた『ポケモン』の制作動機を田尻氏が手短に語り、
ゲームの外側に生まれるコミュニケーションの話や発売日がその後延期されたことも記事末尾から確認できる。
目指すは「そのゲームの登場でコミュニケーションが変わるようなもの。 そして、ゲーマーじゃない人がやりたいと思ってくれるようなゲーム」。 十二月中旬、彼の六年間の夢を凝縮したゲームが任天堂から発売される。 [編集部]